戦争を美化する人たち──「戦争を知らない世代」の歴史認識と、経済的困窮・孤立・格差との関係をFPの視点から読み解く

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「日本人の誇り」という言葉が多すぎる2025年の日本

「日本は悪くなかった」「あの戦争はアジアを解放するための正義の戦いだった」「日本軍は日本を守るために戦った」


こうした言葉を、戦争を知らない若い世代の口から聞くことが少なくありません。
太平洋戦争(大東亜戦争)は、敗戦と占領を経て長く「反省すべき過去」として語られてきました。しかし戦後80年近くを経た今、インターネットやSNSを通じて、その戦争を美しく語る人が増えています。

なぜ、このような「戦争の美化」「正当化」が広がるのでしょうか。

それは、単に歴史教育の問題や知識の不足ではありません。むしろ、現代日本の貧困・不安・孤立・あらゆる格差・情報の偏り・誇りの喪失といった構造的かつ情緒的な問題が、一部の日本人の心を「過去の物語の美化」へと向かわせているのです。

筆者は住宅購入のアドバイスを専門分野としていますが、2025年現在、住宅購入を諦めざるを得ない経済状況の世帯が増えています。諦めざるを得ないというよりも、今の収入のままでは一生マイホームなど無理だろうといえる世帯です。

その方々の中には、実は、「日本人の誇り」や「太平洋戦争の美化」「政権への誹謗中傷ともいえるような過激な悪口」「外国人へのヘイト」を繰り返す人が少なくないのです。筆者の20年ほどの経験ではほとんど見ることはありませんでしたが、2025年に入ってから激増している印象です。

どうやら、この歪んだ歴史認識は、単なる学力や知的レベルでは片づけられない背景があるようなのです。

この記事では、戦争を直接知らない世代の歴史認識がなぜ歪むのかを、ファイナンシャルプランナーの立場から考えていきます。

戦争体験の風化と「物語としての戦争」

筆者は太平洋戦争によって身体障害を負った父親を見て育ちました。自身の生涯にコンプレックスを抱えた父親は、確実に家庭環境に良くない影響を与えていました。筆者自身、戦災者二世ともいえるかもしれません。

祖父は徴兵され、中国大陸で従軍していたようです。(父と祖父が亡くなった後で厚生労働省から書類を取り寄せて発覚)祖父は一言も戦争について語ることなく生涯を閉じましたが、戦争へのトラウマは相当なものでした。

戦争を痛みを持って経験した人たちの歴史認識を筆者はよく知っています。それは明らかな戦争への嫌悪だったはずです。

かつて戦争を実際に経験した人々がいた時代には、戦争は「現実」でした。飢え、空襲、死別、障害、病気──そうした記憶は生々しく、語られる言葉には痛みがありました。戦争によって多かれ少なかれPTSDを負った人達の中には、家庭内でDVとして心理的な傷を発露させてしまったケースも少なくないでしょう。

決していい意味ではなく、戦争の痛みを身をもって感じた時代は戦後長く続いたのです。

筆者が子供時代を過ごした1980年代は小中学校が荒れた時代です。いじめが社会問題となった時代なのですが、その背景には祖父と父親世代の戦争によるPTSDが遠因していたと思います。戦争PTSDが原因の暴力が連鎖する家庭で育った子供たちは、学校でいじめ事件を起こし、職場では暴力的なハラスメントを起こすようになったのかもしれません。子供世代はいま、50代です。

筆者も生育環境で常に「かつての悲惨な戦争」を感じていました。

しかし世代が進むにつれて、戦争は「体験」から「語り」へ、そして実感の乏しい「物語」へと変化していきました。
戦争を痛みを持って語る人が少なくなるにつれて、その記憶は人々の感情や思想によって再構成され、新しい意味づけを与えられていきます。2025年の歴史認識は、まるでマンガのような感傷の物語にすり替わっているようなのです。

バブル景気の時代あたりから「あの時代の人々は苦労して日本を支えた」「あの苦難を乗り越えたからこそ今の繁栄がある」。こうした言葉が増え、「悲劇」は「努力」と「誇り」に置き換えられはじめたのです。

教科書の歴史認識問題が取りざたされたのもバブル経済期です。

そして2025年に至るまで、戦争の記憶は「苦しみの物語」から「誇りの物語」へと変質していきました。
この転換の中で、「日本人は善意で戦った」「あの時代にはあの時代の正義があった」「侵略では無かった」「アジアは日本の感謝している」という考えが徐々に根づいていきます。
歴史の記憶は、社会の感情によって形を変える──まさにその典型的な現象です。

社会学者の成田龍一氏(『「戦争体験」の戦後史』2010)は、この変化を「被害者としての戦争体験から、努力と再生の物語への転換」と位置づけています。人々は戦争を惨禍としてではなく、克服した試練として語り直し始めたのです。

こうした物語のすり替えが進むにつれ、戦争そのものの「加害性」や「責任」の部分が次第に薄まり、戦争は「誇りと団結の時代」として再構成されていきます。これは、戦争の記憶が「道徳的反省」から「美しい社会幻想」に変わる過程とも言えます。

バブル景気の崩壊、「自虐史観」批判、そして自己肯定感について

1980年代以降、「日本は戦後、自国の歴史を悪く教えすぎた」という主張が広がりました。いわゆる「自虐史観」批判です。
この考え方は、「日本は敗戦国として過剰に反省を強いられた」「日本の戦争は侵略ではなく、欧米の帝国主義に抗うためのものだった」という論理を含みます。

自虐史観と対義語は、靖國史観でしょう。靖国神社に併設された資料館、遊就館を見学すると靖國史観が理解できます。(筆者は2回ほど見学しました)

靖國史観に代表される歴史観は、当初は政治的な一部の運動にすぎませんでしたが、やがて出版やメディアを通じて一般化していきました。
背景には「国の誇りを取り戻したい」という願望があったようです。戦後の日本はバブル経済にいたるまで経済的に成功しながらも、国際的な地位や精神的な自信を失っていたのです。
人々の中に、「豊かになっても心は満たされない」「日本は尊敬されていない」という感覚が静かに積もっていました。

バブル景気は日本人の間の経済的格差も拡大したきっかけです。就職氷河期の問題は言うまでもなく、この時代に始まりました。過去の日本人が経験したことのないような強い劣等感を抱くきっかけが、バブル景気とその崩壊です。

そうした状況で、「日本は実は立派だった」「戦争には正義があった」という言葉は、心の奥に潜む「誇りへの渇望」に訴えかけました。

それは、一部の日本人の自己肯定の手段でもあったのです。

SNSが正当化する「論理を用いて感情に訴える話」

現代では、歴史を知る手段が増えました。
かつては学校の授業や書籍が主な情報源でしたが、今はSNSや動画サイト、まとめサイトなどで気軽に情報を得る時代です。
そして、その情報空間では、「感情に訴える話」が「正しい話」よりも強く広がります。

SNSでは、「短く、わかりやすく、感情的に気持ちの良い」語りが拡散しやすい傾向があります。よく「文章が読めない人が増えた」とXで語られることがありますが、文章が読めないのではなく、感情的に気持ちのいい話しか受け入れなくなっているというのが正しいでしょう。

感情に訴えられ、安易に共感を許す人が増えたということもあります。共感を良いこととしてどこかで教えられた人が増えたのでしょうか。すくなくとも1980年代以前は、共感は「集団催眠」「集団ヒステリー」「群集心理」という意味合いで要注意の言葉だったはず。いつのまにか「共感力」という美しく優しい言葉になってしまいました。

大切なのは共感よりも理解のはずです。「論理を用いて感情に訴える」のは古来から詐欺師の常套手段であり、共感を安易に許すのは危険なのですが。共感はネズミにも存在する原始的な感情であることはあまり知られていません。

「日本は悪くない」「アジアを守った」「真実は隠されている」といったメッセージは、ショート動画やXのポストによって、共感という無防備さに入り込んできます。
複雑な史料やデータを読む必要がなく、心に届く情報として受け入れられやすいのです。それは一部の人にとって、痛快で、快適で、安全なメッセージに感じてしまうようです。

SNSは共感のネットワークです。
簡単な共感を呼ぶ投稿は拡散され、そうでないものは埋もれていきます。
結果として、「同じ考えの人たちだけが集まり、反対意見が見えなくなる」という状態が生まれます。これがいわゆる「エコーチェンバー現象」です。

人は共感の中に安心を感じます。
しかしその安心は、異なる意見を排除し、自分の信じたいことだけを真実とみなす方向に働きます。
その結果、戦争を美化する情報が事実検証を経ずに広まり、「学校やオールドメディアは嘘をついている」という感覚が強まっていくのです。

まさに集団ヒステリーです。

「誇りの回復」としての戦争美化

太平洋戦争の美化や正当化を語る人の多くは、単に過去を知らないわけではありません。学力、学歴の高い人も多くいます。受験勉強によって一定の知識はあるはずです。

しかし彼らは誇りを取り戻したいという感情を強く抱いています。
「日本は他国に比べて悪く言われすぎている」「あの時代の日本人は立派だった」という言葉は、過去を語っているようでいて、実際には今の自分の問題なのです。

興味があるのは戦争や歴史認識ではないのです。興味があるのは自分の人生です。

現代社会では、経済の停滞、非正規雇用の増加、格差の拡大などにより、将来への不安が広がっています。
「努力しても報われない」「自分の存在に価値が感じられない」と思う人が増える中で、かつての日本の「強さ」や「誇り」を語ることは、自己肯定の手段になります。
過去の日本を誇ることで、今の自分をも誇りたい──その心理が、戦争の美化を支えているのです。

日本という国と自分の人生の幸福がリンクする時代は、バブル崩壊とともに終焉したはずですが・・・

美しい日本とか、日本の誇りに覚醒!とか、一部の人たちの人生のみじめさを受け止めてくれるキャッチフレーズなのかもしれません。

この現象は、戦前の日本に限らず、多くの国で見られます。
不安定な時代には「過去の栄光」への回帰が強まるものです。
過去を理想化することは、未来に希望を見いだせない苦しい社会の典型的な反応なのです。

自分の人生の息苦しさは、自分の努力でしか変えられないのですが、つい私たちは過去の事実を心地よい物語にして依存しようとするのです。

戦没者を弔う気持ちではなく、自分の人生の鬱憤を晴らすための戦争美化なのです。静かに、1人で弔うことができず、イデオロギーの仮面を被った自分探しなわけです。

これでは戦争で命を落とした方々も救われません。

「学び直し」という言葉の魔力

孤立や孤独は、歴史認識の歪みに影響を与えます。
社会とのつながりを感じにくい人ほど、「自分だけが真実を知っている」という感覚に魅力を感じやすくなります。
それは、孤独の中にある人に「特別な役割」を与えるからです。

「オールドメディアは嘘をついている」「学校では本当のことを教えない」といった主張は、現実への不信と結びついています。
社会や政治への信頼が薄れると、人は別の真実を探し始めます。
それが、SNSや動画サイトでの「学び直し」を自称する偏向コンテンツに惹かれる理由です。学校で教わらなかった本当の真実があると思いたくなるのです。

そしてそこには同じことに気づいた仲間がいます。

孤立した人が同じような考えを持つ人々とつながると、「自分は一人ではない」と感じます。
こうした「疑似共同体」は、一時的には救いになりますが、外の世界との対話を断ち、閉じた信念体系を作り出します。

日本人であることに覚醒するまえに、自分の家計に向き合おう

ファイナンシャルプランナーの立場から見ていくと、自分の人生に誇りが持てないと感じている人には次のような共通点があります。

  • 経済的に恵まれていない・年収が著しく低い
  • 社会的つながりが希薄で、友達がいない・家族がいない
  • 自分の仕事に誇りが持てない
  • 職場には無関心が蔓延り、かと言って仕事を辞められない
  • 他人から尊敬されていない、尊重されていない

これらの状況では、人は自己肯定感の低さに苦しむことになります。筆者も就職氷河期世代であり、不遇をいやというほど味わって生きてきました。本当は会社員として成功したかった。でも、実際は、ブラック企業を転々としたあとで完全歩合の保険営業マンになるしかなく、そこでも自分の欲に溺れ未熟な人格で他人に尊大な態度を取る同僚を何年も見ることになりました。上司は無能で無関心、とても人間が健全に生きて行ける環境ではなかったのです。

大学を卒業するとき、せめてまともな就職ができていたらな・・・と情けなくもなります。そんな心理のときに、「日本人の誇り」のような曖昧な歴史認識にすがってしまう気持ちも分かります。

しかし、それでは何も解決しないのです。筆者の私と同じような就職氷河期の負け組にとって大切なのは、次の三つです。

  • 職業・収入減を複数持つこと
  • 預貯金を持つこと(ただし資産運用している自分に溺れ、依存しないこと)
  • お金を目的としない趣味の仲間を作ること

「ひとつの仕事に就職し、十分な収入を得る」ということにいつまでも依存しない方がいいでしょう。それではいつまでもゆとりは生まれません。3つ~4つの収入源に増やし、ゲームのように収入を増やしていくことで、正社員の人達に負けない額の収入を得られます。ここ、本当に重要な考え方なので、ぜひ参考にしてください。

お金を目的としない趣味の仲間は、会社員ほどあまり恵まれていません。ここは積極的に作っていきましょう。絶対に仕事を絡めてはいけません。利害関係のない純粋な友達を作れたら、精神的に大きな安定となります。ここで大切なのは、それは異性関係、恋愛関係であってはいけないということです。恋愛感情をからめた仲間はいずれ自分の自己肯定感を不安定にさせます。

ゆとりを感じる預貯金とはどの程度でしょうか。筆者の経験上、それはこれまでの年収の約5倍だと思います。年収450万円であれば、2,250万円です。ここからさらに貯金を積み上げながら働いていけば、もうお金のことで卑屈になることはなくなります。家族の一大事にも余裕を持って支援できます。

そして全体で大切なのは、自分を嫌いになるようなお金儲けはなるべくしないということ。ネットワークビジネスや保険勧誘など、友達や知人がお金に見えてしまうような人間では、お金を稼いでもすぐに自分のことを誇れなくなります。努力ごっこをする自分に依存し、他人を見下し、自分の実績や所有物を誰から構わず自慢する寂しい大人を、誰しも見たことがあるでしょう。尊敬されるビジネスでなくても結構ですが、10歳だった自分に恥ずかしくない仕事の仕方をするべきです。

歪んだ歴史認識で戦争を美化したり、日本人の誇りとやらを声高に叫んだり、SNSで暴力的に振舞ったり、外国人を排斥しようとしたり、それは、自分を許せていないからではないでしょうか。

自分を許し、落ち着いた人生を取り戻すためにも、お金と自分との向き合い方を考えてみる必要があります。当社ではそのお手伝いをしています。

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長岡FP事務所
長岡FP事務所合同会社、代表社員・FP 長岡理知。 Ethical Fiduciary Planner(倫理的フィデューシャリープランナー) 住宅専門FPとして経験は約20年。累計相談件数は5,000世帯超です。もうひとつの専門分野は生命保険。脳出血やガンなどの大病を患ったときの生活防衛や、老後資金の資産運用についてアドバイスしています。